福岡県久留米市のはねオンライン株式会社 |WEB制作|デザイン制作

創業20周年アナザーストーリー

はじめに

「20年を振り返ってというブログは読みました。でもなんで仙台の人がわざわざ福岡に来て仕事をはじめたの?そもそも2人はどういう関係ですか?」

そんな私たちに興味津々な問い合わせが、あちらからもこちらからもまったく届いておりませんが、今回もまた私(永松)が、ただただ懐かしむためだけの目的ではねオンラインがはじまる前のことを振り返ってみたいと思います。

1995年|新入社員研修での出会い

私(永松)が長尾と出会ったのは、1995年までさかのぼります。

私たちは、とある会社の新入社員として、福岡営業所と仙台営業所に所属していました。

入社して数か月が経ったころ、東京本社で新入社員を対象とした長期出張がありました。

大阪、名古屋、仙台から1人ずつ。福岡から2名(そのうちひとりが私)。
合計5人が、2か月間、同じ屋根の下で生活し、同じ事務所で仕事をすることになったのです。

初日に長尾がいなかった理由

初日、「寮」と呼んでいたマンションの一部屋に4人が集まりました。
「仙台の子は、インセンティブ旅行でサイパンに行っとるから、1日遅れるらしいよ。コンガリ焼けてかえってくるんとちゃうか。ンフフフフ」
大阪の林(仮名)がひとりで笑いながら言いました。

この場に集まっているメンバーは、成績優秀な人ばかりです。
成績が可もなく不可もない私なんかが来るような場所じゃないのです。

福岡は、もう1人の土井(仮名)くんが成績優秀でした。
福岡は他の営業所よりも、新人の数が多かったので、「もう1人おまけで、気合いの入ってないヤツでも行かとくか」という流れで私が選ばれたに違いありません。

毎日、東京本社からFAXで流れてくる全国の成績ランキング表が壁に張り出されていました。
ここにいるみんなの名前は知っていました。いつも上位にいる人たちばかりですから。

これが大阪の林(仮名)か。まさに営業するために生まれてきたような感じだ。ずっとしゃべってる。
これが名古屋の砂川(仮名)か。誠実そうで堅実な顔をしている。着々と伸びていくタイプだぞこれは。
仙台の長尾(本名)はまだここにはいないが、サイパン旅行獲得して、1日遅れての出張参加というVIP待遇を会社から許された人物。
福岡の土井(仮名)は、福岡の新人メンバーの中でもあたまひとつ抜けていた。上層部からも認められている未来の幹部候補者である。

みんなと挨拶するときに感じました。
「福岡の永松?いたっけそんな人」
みんな心の中でそう思っているのをひしひしと感じました。

2ヶ月って長いな~。不安でいっぱいでした。

棒グラフのある毎日

この会社の営業スタイルは、主に電話を使った営業でした。
主に……というか、「全部」です。
挨拶から契約まで「ぜーんぶ電話」です。

なので、同じ事務所内で一日中全員が同じ仕事をするので、誰がすごくて、誰がすごくないかは一目瞭然。

壁には、名前入りの棒グラフ。
実力は丸はだかになります。

サイパン帰りの青年

初日、仕事を終えて4人で寮に帰ると、床で体育座りで待っている青年がいました。
(いた……!あれがサイパン野郎か……。どんなツワモノが来たんだろう……)

大阪の林(仮名)が親しげな様子で話しかけています。
「おー来とったんか。サイパンどうやった?暑かったやろ。そないなわけないやろ。ンフフフフ」

仕事ができる営業所のトップ同士というのは、すでに冗談まで言い合うようなレベルの関係なんだな~。
日頃から情報交換したりしてるんだろう。さすがだ。

すでに気後れ状態である上に人見知りな私が、体育座りのサイパン男に「うぃず~」って感じで小さく挨拶すると、私よりも人見知りそうな表情でこちらを見上げながら挨拶を返してきました。

(あれ?思ってた感じとちょっと違う……。でもなんか思ってたより親しみやすそう!)
これが、私が長尾に抱いた最初の印象でした。

あとから聞いた話ですが、長尾は大阪の林としゃべったのはこのときが初めてだったらしいです。
あのスーパーフレンドリーさはどこでどう育てば身につけられるのだろう。
大阪で育てばああなれるのかな。
私の大阪人に対するイメージは、今でもこの林氏がベースになっています。

研修が終わっても

長いと思っていた2ヶ月間でしたが、おもしろい日々ばかりでずっと笑っていた記憶があり、あっという間に終わりました。
5人はそれぞれの営業所に戻っても、連絡を取り合うような関係でした。

とくに、長尾とのやり取りは長く深く続きました。

「なにかおもしろいことをしてみたい」

そんな、ただただ青臭く、具体性のない情熱を持っていた点で私たちは意気投合し、
「こんなことをしたらおもしろいんじゃないか」、
「こんなものを作ったらおもしろいんじゃないか」、
と、しょっちゅう電話で話してました。
おかげさまで、携帯電話の料金は月に3~5万円かかってました。
(かけ放題プランなどなかった時代です)

1997年|組織の変化と通信の仕事

入社して2年を過ぎたころ、会社の組織が大きく変化します。

組織の一部が、通信関係の仕事をする会社として分社しました。

(このあたりはいろいろ細かい経緯もありますが)
私もその通信会社を立ち上げるメンバーとして福岡営業所で働くことになります。

長尾もまた、同じ通信関係の会社側に移り、仙台営業所で勤めることになりました。

2000年|ゴールデンウイーク合宿のはじまり

2000年から、毎年ゴールデンウィークになると、
「電話だけでは何も始まらない」
ということで、「合宿」という名目で長尾が福岡にやってきました。

長尾のアイデアや企画は斬新でした。
「対決シリーズ」や「ラジオ番組制作」のような企画をつくってきており、実際それをやってみました。

2000年から2005年まで、5年連続でゴールデンウィークの合宿は続きました。

長尾は福岡の街、とくに天神あたりがとても気にっているようで、長尾が毎年福岡に来てくれてました。
(わたしが祖母と2人暮らしだったから、気をつかってくれたのもあったのかもですが)

何がしたいのかは分からないけど

何がやりたいかは分からないけど、何かおもしろいことがしたい。

今思えば、絶対に成功しない人がよく言うセリフですが、ずっとそんな状態だったような気がします。

試行錯誤ばかりで、何がやりたいのか具体的には決まりませんでしたが、その中で今につながっているものがあります。

ホームページです。

これからの時代はインターネットで発信する時代だ!と思った私たちは、ホームページをつくってみようプロジェクトを立ち上げました。

ホームページ制作のために

私はデジタルハリウッド(デジハリ)という学校に通うことにしました。
日曜日のみのコースです。
1年間学校に通い、ホームページ制作の基礎を学びました。

途中で数か月挫折し、さっぱり授業についていけなくなりましたが、自習室の知らない人にほとんど作ってもらった卒業課題でなんとか卒業しました。

そして、ほんのりうっすらぼんやりとしたあいまいな基礎を身につけました。

2002年|ピーガラガガラガラでホームページが完成

2002年、ADSL回線が普及しはじめた頃でしたが、自宅はまだアナログ回線。
しかもコードレス電話機(子機)の充電機からさらに電話線を出してパソコンにつなぐという、かなりマイナーなつなぎ方をしていたので、おそらく10キロbpsくらいの速度しか出てなかったと思います。

ピーガラガガラガラというモデム音を鳴らしながら、とうとう自分たちのホームページの出来上がりました。

ド素人まる出しの出来でしたが、それでも私たちは、自分たちのホームページが持てたことがうれしくてうれしくて、毎日交代で文章などを書いて発信しました。

そのころよく見ていたホームページが、糸井重里さんが作られた「ほぼ日」です。
ほぼ日刊の略で、毎日何かを更新されていて刺激を受けてました。

ある日、そのほぼ日のホームページで、
「個人でホームページを持っている人は、ダメ出ししながら紹介します」
みたいな期間限定の企画がありまして、それに応募したところ、本当に紹介してもらいました。

ブログの女王と呼ばれていた眞鍋かをり、しょこたんがブログをはじめたのが2004年。
それよりも早い2002年からブログみたいなことをはじめていて、さらにほぼ日にまで紹介されたのにも関わらず、私たちのホームページは鳴かず飛ばずでしたね。
でも、自分たちの発信できる場所があるっていう喜びを今でもおぼえています。

30を過ぎたころから

30歳を過ぎたころ、私の生活にも変化が出てきました。

祖母(ばあちゃん)と二人暮らしでしたが、元気だったばあちゃんも調子の良くない日が少しずつ増えてきました。

筑後市から博多まで通勤していたため、朝は早く、帰りは遅い日が続き、夜帰るとばあちゃんが家にいない、ということもありました。
(暗くなり道に迷ってて、パトカーに乗って帰ってきたことが数回あります。「はいはいどうもありがとさん」と慣れた感じで言いながら、警察官に腕を持ってもらいパトカーを降りる姿は、まるで手厚い護衛をされてる大富豪かのようでした。ハートが大物すぎるよばあちゃん)

辞めると決めるまで

ばあちゃんの年齢のこともあり、いつまでもこのままの生活を続けてると、いつか後悔してしまうだろうというのが自分で分かっていました。
それに、長尾と何かにチャレンジしてみたい、という気持ちも大きく膨らんでいます。

もし、長尾が福岡に来れなくても、インターネットを使ったりいろんな方法でなんとかなるような気がしていました。
離れて仕事をしていても、年に何回かまた「合宿」をすればいいだけの話です。

一緒に働いていた人たちのことも好きだったし、上司も人間的にも仕事ぶりでも心から尊敬できる方だったため、裏切ってしまうような気がして、なかなか「辞めます」と言い出すことができませんでした。

2005年秋|のれん分け的なお話をいただきました

ようやく、ようやく、退職の意を伝えると、筑後地区のお客様を引き継ぎ、今の仕事を続けてはどうかと提案していただきました。

資金に関してもありがたいお話しをいただきましたが、自分たちで考えて、自分たちで決めていろいろとやってみたかったというのも強かったし、そこまでしてもらったらたぶん自分はあまり変わらないような気がして、その点は甘えないようにしました。

でもそのお気持ちはずいぶん私の励みになり、ずっと心を支えてくれました。

のれん分けという形でお仕事をさせていただくことにして、経済的には完全に独立とさせていただきました。

「ぼくも行きます」

長尾に電話をし、会社を辞めることにした、と伝えました。

「わかりました。ぼくもやめます。そして、福岡に行きます」
とすぐさま返ってきました。

長尾のいる仙台の組織の社長は、私自身も大変お世話になった方でした。

私はその方の会社から大きな戦力だった長尾を引き抜いた形になります。
恩を仇で返してしまった、という思いは今でも消えてはいません。

だからこそ、とりあえず20年続けられてよかったと思っています。

2006年1月4日|アパートの一室からのスタート

2006年1月4日夜、長尾は、福岡空港に降り立ちました。

筑後へ向かう途中、少なくなっていく街の明かりを車内から見つめながら長尾がボツリとつぶやきました。

「筑後って、天神の街からけっこう遠いんですね」
「なんか思ってたのと違う感じの場所で仕事するんですね」

私は聞こえなかったふりをして言いました。

「さ、着いたよ。ここがぼくらのはじまりの場所だ」